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本着物とは
風土的、歴史的、伝統的であり、霊性、個性、時代性といった性質を有する衣服を「本着物」と定義しています。
歴史から紐解いてみますと、現在の「着物」という概念はとても狭義の意味で捉えられています。理由としては多くの場合、あくまでも文明開化前夜の衣服のことをさす言葉として扱われているからです。そのため、いわゆる「着物」の認識が付加されていない、本来の着物として「本着物」という言葉を運用することといたしました。
当初は平仮名表記で「ほんきもの」を本着物(本来の着物)と本気者(本気の者)を和えた造語として運用していました。現在は明瞭性から「本着物」を主に使用しています。
着物=着るもの
現在「着物」は文明開化前夜の衣服を示す言葉です。文明開化によって、着物は固有の衣服として識別する必要があり、洋服に対して和服といったレトロニムが生まれ、次第に着物にも和服の意味が反映されるようになります。和服の他にも和菓子や和傘や和家具といった言葉も同様です。本来は菓子、傘、家具でした。異文化が急速に流入した激動の時代の流れの中で、明治以前に確立された衣服を「和服=着物」と呼ぶようになりました。
しかしながら、私はもっと広義の、本来の意味での着物を手掛けたいと思っています。
つまり「着るもの」としての「きもの」です。
これまでの時代では、異国から伝来した文化や思想を、土着のものと融和し新たなものを生み出してきました。しかしながら現代において着物姿の方は稀です。要因としては、文明開化以降、着物とはこうだと定義づけてしまったがために、和と洋を区別して考えるようになってしまった結果、今までの時代のように融和が進まず、極端に別物として扱ってしまった経緯があるからだと考えられます。
平安の束帯と江戸の羽織袴を比べて見ても明らかですが、「変化する衣服こそが着物」であると言えます。余談として、江戸で確立された小袖は、平安時代においては下着にあたります。「形式昇格」や「表衣脱皮」の原則と表されますが、衣服の歴史においては、正装や普段着が変化することは常識となっています。
だからこそ私の方向性としては、これまでの伝統のように、この日本列島に脈絡と受け継がれてきた既存の美意識や思想を根底とした上で、頂いた異国の文化や思想等を融和した本義の意味を持つ「着物=着るもの」、「本着物」を手掛けていく所存です。
美とは何か
この土地に流れる美意識や価値観を私なりに解釈し再構成した着物「本着物」を手掛けています。
このようにお伝えしますと「美とは何か」という根源的な問いが生まれるかとは思います。美の種類は多様であり捉えがたいものではありますが、美しさを感じる要因のひとつに統一感、様式美というものがあります。ここでいう美とは、主に統一感、様式美をさすこととします。ある形式に基づいたつくりや表現が細部に至るまで統制されているとき、人は美しいと感じやすいと思います。もちろん感受性は千差万別ですので断定することはできませんが、たとえば古い町並を目にしたとき、多くの方が美しいと感じると思います。
なぜ古い町並は、国や地域を問わず美しいのか。
その理由を探るとすれば、私は「制約が美を担保していた」からだと考えています。
昔の町並が美しいと感じるのは、家を建てる際、情報にしても素材にしても作り方にしても、交通網や伝達手段に制限があることで地域ごとに特定の共通項が生まれ、必然的に調和のとれた建築群となりやすく、結果として町並全体としての美が生まれたのではないかと思います。
現在の社会においては、情報も素材も作り方も、何もかもが自由になりました。その過程で、制約によって担保されていた美を手放してしまったと感じています。とはいえ、全員で同じ服装をしようと促そうとは考えていません。具体案としては、ローカライズした上でパーソナライズをしたらいいのではないかと思っています。
白川郷を例にあげてみますと、全体の町並はとても美しいと感じます。しかし近づいてみると、意外にも建築それぞれは個性的です。つまり共通項があることで、たとえ個性の集まりになったとしても、全体としての美がそこに宿ると考えられます。
このような事象から、美とは自然や人為的に規定された制約から生まれる賜物であると感じています。ここで重要な点は、共通項があることで、偉大な芸術家に匹敵する、あるいはそれ以上の美が全体に宿ると考えていることです。
俯瞰して全体を見渡した際にも美しい状態でありながらも、多様性を保ち個性も尊重する。本着物は、このような世界観を目指しています。
継承する美しさ
ひと昔前であれば、何も考えずとも制約が美を担保していた訳ですが、現在では自由であるがゆえに、意識的に共通項や制約を掲げる必要があると思っています。私としては着物に美しさを感じていますので、着物を美しく感じる理由から共通項として掲げる要素を見出し、その本質を現代に継承しようと考えました。
方法としては、着物の美を浮かび上がらせるために洋服との対比を試みました。主観として、それぞれ下記のような特徴があるように感じました。
これら比較による評価は私個人による主観ではありますが、身体のアウトラインを隠し、未知化して想像を掻き立てる着物にとても惹かれていることが分かりました。全てが明らかになっている状態よりも、すこし分からない部分があった方が、私の眼には魅力的に映るようです。
以上のことから、余白を纏う性質が着物の美に深く根付いていると感じ「身体を未知化する美意識」、「想像の余地のある美」を継承の柱としています。
あとがき
上記のように本着物を定義しておりますが、本音を言えば「私が着たい衣服がなかった」という単純な理由から生まれた衣服、それが本着物です。
私の数寄にお付き合い頂けましたら幸いです。